「気がついた?」
ベッドに横たわるケンイチの顔を覗き込む、金髪をボブカットにした女性。いや、眼鏡をかけているせいで大人びて見えるが、その奥の瞳はまだ幼さを残す少女のようだ。
「あの、私は一体……?」
ケンイチは目をぱちくりとさせている。状況がうまく把握できていないようだ。
ケンイチは過度のストレスでケンジという人格と入れ替わり、食堂で念動力を使って暴れだした。職員が彼を押さえつけ、鎮静剤を打たれたケンイチは医務室まで運ばれてきたのだ。
「大分暴れたみたい。少し見せてもらったけど、ストレスに弱いみたいね」
女性の言葉を聞いてケンイチはうなだれた。そういえばそんなことが度々あったらしいが、そのときの記憶が自分にはまったく残っていない。『ケンジ』が出てこない限りナイトメアも使えない。それなのに自分はこんなところに閉じ込められて……理不尽な扱いにケンイチは深く落ち込んだ。
「私は、隔離房に入れられるんでしょうか。『ケンジ』はとても暴力的な性格なので、もしまた暴れるようなことがあれば皆さんを傷付けます……」
弱弱しくケンイチが言った。
「大丈夫よ、隔離房に閉じ込めたりしたらますますあなたにストレスがかかるでしょ? そうなったらあなたは常にケンジに支配されてしまうかもしれない。それに、ストレス解消のために娯楽室が開放されるのよ。あなたも行ってみればいいわ」
「あの、あなたは?」
「私はバネット。ここで医者みたいなことをしているの。あなたたちのカウンセリングも担当しているからよろしくね」
「よ、よろしくお願いします」
ベッドに座っていつものように身を縮ませるケンイチに、バネットと名乗った女性は温かい紅茶を差し出した。
「闇が怖いのね?」
「はい、でもただの闇じゃないんです」
「知ってるわ。こっちでも対策をしているから、心配しないで」
バネットのブロンドが窓ガラス越しの光を浴びてキラキラ光っている。ケンイチはなぜか彼女に既視感を覚えた。
バチバチ…‥チチッ
小さな破裂音がして、部屋の電灯がちらついたかと思うとそのまま消えてしまった。もう何度目だろう? ケンイチ・ゴールドスミスの部屋で起こっている怪異。
「ま、まだ消灯時間じゃないのに……」
ケンイチは震える手で本を置くと、壁を頼りに手探りでドアまで歩いていった。ドアに取り付けられたボタンを探すが、なかなか見つからない。
「す、すいません……電気が……」
蚊の鳴くような声でケンイチが言うと、何事もなかったかのように部屋の明かりが灯った。
「もう我慢できない……」
ケンイチは頭を抱え半べそになると、ボタンを押した。
『どうした、ケンイチ・ゴールドスミス』
ややあって天井のスピーカーから男性職員の声がした。
「おかしいんです、私の部屋。その、電灯の調子が悪いのかも……」
ケンイチの訴えを聞いて職員が見にきたが、電灯に異常はなかった。それがますますケンイチを不安にした。こんなところにこれ以上いたらおかしくなってしまう。
無理だと諦めきっていたことを、やってみるしかないのかもしれない。
「レナさん」
次の日の朝、食堂でケンイチがレナの元に足早にやってきた。
「おはようケンイチ。どうしたの? なんだかそわそわしているみたいだけど」
ロールパンをつぶして小さくしていたレナが顔を上げた。
「あ、あの、私も何かお役に立てないかと……その、故郷が恋しくなったといいますか……」
「カンザスね。でもどうしちゃったの、急にやる気出しちゃって」
「『影』ですよ、ここにはきっと恐ろしい霊か何かがいるんです。こんな狭いところで、そんな恐ろしいものと一緒にいるなんて耐えられません」
ケンイチの持っているプレートがカタカタと震えている。
「影ねぇ。そういう噂って楽しそうだけどね」
「何もないよりは刺激的かもしれないわね」
「そんなぁ、アリシアさんまで……」
思わず涙ぐむケンイチ。
「冗談よ。あなたにできることがあれば是非協力してほしいわ」
レナが悪戯っぽく笑った、そのとき。
――パチン
食堂の電灯が、一斉に消えた。
「わあぁぁああぁぁ……っ!!」
ざわつきの中、ひときわ響くケンイチの悲鳴。
「落ち着いて、ただの停電だよ」
レナがケンイチをなだめていると、ぱぱぱ、と電灯が奥から順に復旧した。
「ねぇケンイチ、もう大丈夫だよ」
レナが掴んでいた手の主を見上げる。
「……気にいらねぇな」
「え?」
レナは自分の耳を疑った。
「コソコソしやがって、気にいらねぇんだよ!」
怒鳴っているのはケンイチだった。しかし、それがケンイチだとは信じられなかった。姿形、何も変わっていない。変わっているのは口調と、眼光の鋭さだけだ。
「女! テメェも看守様ならわかってんだろうが!」
ケンイチの視線の先には、杏柚が立っていた。あまりの怒声に杏柚はスカートの下に仕込んであるナイフを確かめる。
「調査中だ」
「ああ? テメェらがチンタラしてるうちに俺がこの場でぶっ潰してやるよ!」
ケンイチの周囲の椅子や机が宙に浮く。
「ケンイチ! 落ち着いて! ここで暴れたら拘束されるわよ!」
「ケンイチ? 俺はケンジだ、覚えとけ」
ケンイチ――ケンジがギラギラ光る目をレナに向けた。
呉 杏柚(クレ・アンユ)は珍しく所長室に呼び出されていた。所長とはもちろんこの収容所の所長であり、職員といえどもおいそれとお目にかかれる存在ではない。職員が所長に呼び出されるのは、不手際を起こしてしまった場合か特別な任務が与えられるときだけだ。何も自分が失態を演じた覚えはないが、それでも杏柚は緊張を隠せずにいた。それだけの威圧感が所長にはあった。
「急に呼び出してしまってすまないな、呉くん」
黒い革張りの椅子を軋ませて足を組みかえる壮年の男、彼の名はアルバート・ディラック。アノニマ収容施設の所長である。彼の名をとってこの収容施設は『ディラックの箱』と呼ばれている。
「実は、君に調査してもらいたいことがある」
「私にですか?」
「そうだ。君は『影』の噂を知っているか?」
「噂は耳にしています」
「噂の真相を明らかにしてほしい。何もなければそれでいい。しかし『影』は存在する。病院やこのような施設の類によくある怪談話ではないのだよ」
ディラックが机に薄いファイルを置いた。そこには『影』の目撃談が詳細に記されている。
「ナイトメアに関わる存在でしょうか」
「おそらくそうだろう。実に興味深い能力だ」
「ええ……」
ディラックの差し出した書類を、杏柚はおそるおそる受け取った。この男にはすべてにおいて敵わない、そんな息苦しさを感じる。
「捕獲して私の前に引きずり出せ。手段は君に任せる。生きていればかまわん」
ディラックの目がギラギラと光っているように見えた。
部屋を出た杏柚は足早に休憩室に向かった。コーヒーサーバーに触れる手が震えている。あの男は苦手だ、すべてを見透かされているような気がする。
「『影』よ、出すぎた真似はするな。お前も私の箱の中で生まれた混沌にすぎん」
部屋の一角にできた影を見つめながら独り言のようにつぶやくディラックに、表情はなかった。
そもそも針の所持は他の収容者には認められていないのだが、希の能力が戦闘向きでないことや彼女の性格の穏やかさから少しの裁縫道具を持つことを許可されているのだった。
すっかり手慣れた様子でハンカチに飾り縫いを施していくが、彼女は本来手先でするような細かいことが苦手である。不器用なことは自分でも自覚していたが、よくわからないままいつからか閉じ込められていたこの施設では、何かをしていないと不安になった。
何かに集中している間は不安さを忘れられる。だから希は、あえて自分が苦手とする裁縫をやろうと思い立った。
何も考えなくてもできるような得意なことでは、不安を思い出してしまうから。
そういえば彼女がコルクボードを使って布を集め始めてから、ときどき何枚もまとめて布切れをボードに貼り付けてくれる人がいる。名前も書いていないし、何を作って欲しいということもわからないが、その布をきれいな正方形のハンカチにしてコルクボードに貼っておくと、その誰かが持って行ってくれる。希にとってそれはちょっとした楽しみになっていた。次はブックカバーにでも挑戦してみようかな。
「また匿名さんからの布だ」
希は外の世界から入ってくる色々な柄の布を丁寧にベッドに並べていった。すると、布の束から小さな紙切れが零れ落ちた。紙切れを拾い上げ、広げてみるとハンカチの例が書いてあった。こんなことは初めてだ。名前はないが、紙切れの端にツバメのスタンプが押してある。
「ツバメさん?」
さらに、厚紙に挟まれて刺繍針と糸が忍ばせてあった。
「刺繍かぁ……」
自分が持っている裁縫針より太くて頑丈な刺繍針と、紺色の刺繍糸。
「このツバメを刺繍できたら、きっとかわいいだろうな」
希は嬉しそうに裁縫箱に針と糸をしまった。
なぜそんなものが自分の元に送られてきたのか、希は疑うこともしなかった。特殊な能力があること以外、か弱く穏やかな少女である希にとって針と糸がさして物騒なものだとは思えなかった。
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