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遠吠えは届かない
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a0002_003094.jpg 呉 杏柚(クレ・アンユ)は珍しく所長室に呼び出されていた。所長とはもちろんこの収容所の所長であり、職員といえどもおいそれとお目にかかれる存在ではない。職員が所長に呼び出されるのは、不手際を起こしてしまった場合か特別な任務が与えられるときだけだ。何も自分が失態を演じた覚えはないが、それでも杏柚は緊張を隠せずにいた。それだけの威圧感が所長にはあった。
「急に呼び出してしまってすまないな、呉くん」
 黒い革張りの椅子を軋ませて足を組みかえる壮年の男、彼の名はアルバート・ディラック。アノニマ収容施設の所長である。彼の名をとってこの収容施設は『ディラックの箱』と呼ばれている。
「実は、君に調査してもらいたいことがある」
「私にですか?」
「そうだ。君は『影』の噂を知っているか?」
「噂は耳にしています」
「噂の真相を明らかにしてほしい。何もなければそれでいい。しかし『影』は存在する。病院やこのような施設の類によくある怪談話ではないのだよ」
 ディラックが机に薄いファイルを置いた。そこには『影』の目撃談が詳細に記されている。
「ナイトメアに関わる存在でしょうか」
「おそらくそうだろう。実に興味深い能力だ」
「ええ……」
 ディラックの差し出した書類を、杏柚はおそるおそる受け取った。この男にはすべてにおいて敵わない、そんな息苦しさを感じる。
「捕獲して私の前に引きずり出せ。手段は君に任せる。生きていればかまわん」
 ディラックの目がギラギラと光っているように見えた。
 部屋を出た杏柚は足早に休憩室に向かった。コーヒーサーバーに触れる手が震えている。あの男は苦手だ、すべてを見透かされているような気がする。

「『影』よ、出すぎた真似はするな。お前も私の箱の中で生まれた混沌にすぎん」
 部屋の一角にできた影を見つめながら独り言のようにつぶやくディラックに、表情はなかった。
 

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