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遠吠えは届かない
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「ここだと思うよ、鏡が言ってた抜け道があるのは」
 薄暗い闇に包まれた化粧室の前で、レナがつぶやいた。
 テローネは手を差し出し、床にポタポタと血を落とした。
「さあ、生まれなさいの。醜い醜い私の坊やたち」
 ナイトメア『血母神の血肉―マグナ・マーテル』。テローネの血は異形のトカゲに姿を変えた。
「他にも目立たないように血を散らせてありますの。夜に小さなトカゲに変えて、情報を集めますの」
「トカゲが見たものはテローネにもわかるの?」
「全部わかりますの」
 先ほど娯楽室で見せたような、怯えたような表情はまったく残っていなかった。血が出ていても、同じ年頃の子供のように泣きわめいたりはしない。
「じゃあ、早く医務室に行こう。痛いでしょう」
 レナはハンカチでテローネの指をきつく巻いて、医務室へ向かった。

 トカゲは壁を登り、天井を探り始めた。闇から見えない手が伸びて天井のタイルを一枚剥がし、中にトカゲを導いた。


「やあこんにちは。怪我かい?」
 医務室の回転椅子に腰掛けていたのは、背の高い青年医師だった。
「見せてごらん。深く切ってしまったみたいだね、でも大丈夫」
 医師がテローネの指に触れると、傷口は一瞬のうちにきれいにふさがった。
「はい、これでよし」
 テローネは自分の指先をまじまじと眺めた。傷があったとは思えない。
「ナイトメアですの?」
「そうだよ。僕はこれで生計を立てている医者だからね。もちろん能力を使わない診察もできるけど、痛いのは早く直ったほうがいいし、女の子に傷は残せないからね」
 医師は優しく微笑んだが、テローネはその笑顔の中に狂気のようなものを感じた。嫌な笑顔。彼女は素直にそう思った。
 レナは特に何も感じていないようで、テローネの傷が治ったことに安心していた。いや、そういえば忘れかけていた。確か鏡に聞いた話では、医務室にいるのはバネットという女医だったはずだ。
「ねえ、バネットさんはどうしたの?」
 それとなくレナが聞く。
「バネット? 彼女は主にカウンセリングを担当しているよ。病気や怪我を見るのは僕の仕事だね。それに女の子が来たときは僕が診たいし」
「なにそれ、変態じみてるわね」
「バネットは変態じゃないよ」
「あなたが変態だって言ってるの」
 呆れたようにレナが言った。
「バネットは変態じゃないけど、怒ると怖いから気をつけて」
「えっ」
 レナは一瞬、彼の青い瞳が真剣に訴えたように見えた気がした。が、テローネはこの部屋の居心地の悪さがたまらなかった。
「もう行くですの」
 テローネは小さな手でレナの腕を引いて、医務室から出て行った。
 

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a0990_000925.jpg 娯楽室開放。それは収容されている者たちにとって朗報だった。一部の者を除いて、希望者は一日二時間、昼食の後に娯楽室で本を読んだり他の者と話を楽しむことができる。
「一部の人ってどういうこと?」
 早速娯楽室にやってきたアリシアが窓際のソファに席を取り、レナに尋ねた。
「凶暴な人とか、人に迷惑かける人とか、つまり問題児じゃない?」
 レナはココアをかき回しながら答えた。
「アリシア、ハンカチできたよ」
 希がきれいに飾り縫いをしたハンカチをアリシアに渡した。
「わー、ありがとう! かわいくなったよー」
 嬉しそうに受け取るアリシア。自然と希も笑顔になる。
「希もここに座りなよ、日当たりがいいよ」
 アリシアがすすめた場所に希が腰掛ける。分厚い強化ガラスから差し込む光が気持ちいい。
「ねぇ、アリシアの能力はナイトメアがあるかどうかわかるだけだよね。人を傷付けるものじゃないのに、どうしてこんなところにいなきゃいけないのかな……私だって、たいしたことはできないし」
 希がぽつりと話し出した。
「そうだね、私にはここに来るまでの記憶がないんだけど、どうして自分がこんなところにいなきゃいけないのかわからない。希は外に家族とかいる?」
「私は……家族や友人は戦争で失ってしまったの」
「あ、ごめん……」
「いいの、自分の過去がわからないほうが辛いよ。もし外に出られたら、私はまた好きなだけ空を眺めたいな」
 窓ガラス越しに空を眺めながら希が言った。この場所の窓が開くことはない。
「外に出たいと思う?」
「うん、出たいかな」
 何気なく湧き上がる、外の世界への希望。流されるだけの生活から、希が変わり始めていた。

「うをー! さっぱりわからない!」
 娯楽室においてあるチェス盤を凝視しながら頭をかきむしるレナ。向かい側に座っているのは月見 鏡。
(「失礼ながら頭のほうはイマイチ、と」)
 クイーンを取り上げながら鏡は冷静に周りの人間を観察していた。
「何かいい情報あった?」
「少し、注意したい人間がいます」
 バネット。あの女は要注意だ、と鏡が告げる。とても動きにくい状況であることも。
「厄介ねぇ」
 レナがため息をついた。誰かがレナのキングをひょいと取り上げて、彼女はようやく自分が負けたことに気がついた。
「レナさんの負けですの。王様が死んでしまいましたの」
 白い小さな手に白のキングをおさめた声の主は、テローネ。目のない黒猫を連れた不思議な少女だ。
「これは戦争のゲームですの?」
「そうですね、戦争を模したゲームです」
 レナの代わりに鏡が答える。
「チェスは二人で遊ぶものですの。私はトランプで遊びたいですの」
 テローネはチェス版の上に真新しい紙製のトランプを置いた。
「そうだね、トランプなら大勢でできるし、簡単にできるゲームもあるし」
 レナがチェス版を片付けて何のトランプゲームをしようかテローネと話していると、長身の青年、トランスポートが近寄ってきた。
「いいモノを見つけたぞ。どこぞのモグラが掘った穴だ」
 彼はエアダクトのことをそれとなく教えた。それがどこに続くかわからないが、出口に近いという噂はある。まだ確証はもてないが。
「それなら私が確かめてあげますの」
「まさか直接入ってみようっていうんじゃ」
 怪訝な顔をするトランスポートを見て、テローネは意味ありげに微笑んだ。
「とりあえず、今はトランプをするんですの。他人と遊ぶのって初めてですの」
 レナ、トランスポート、鏡を見渡してテローネが小さな手でパタパタとトランプを切り始めた。
「私ババ抜きがいいな~」
「ババ抜き? それはどういうゲームですの?」
 のうてんきなレナに一枚、カードをテーブルに滑らせるテローネ。そのときカードが彼女の指の皮膚を裂いた。テーブルの上に滴り落ちる血。
「痛いですの。紙って意外と切れ味が鋭いですの」
 トランプをバラバラと落として、テローネは自分の手を握り締めた。
「大変! 医務室で診てもらわないと」
 レナが慌ててドアに向かい、取り付けられているボタンを連打する。すぐに職員がドアを開けてレナの話を聞いた。
「私が医務室まで連れて行こう」
 ロングスカートの知的な女性――杏柚だ。
「私はレナさんについてきてほしいんですの。怖いんですの」
 テローネが小さな体をさらに縮めて怯えてみせる。杏柚は正直こういった反応が苦手だった。どう接すればいいのかよくわからないのだ。
「医務室がどこにあるのかは知っているか?」
「うん、知ってるわ」
 レナがうなずくと、杏柚は二人を部屋から送り出した。自分は血を拭いたりしなければいけないし……と、理由をつけて二人を自由にしてやる。あのテローネという肌の白い少女はこの前食堂でマウスを出し、今もナイトメアで作り上げた黒猫を連れている。何か考えがあることは確かだ。面白い、何をするのか少し見せてもらってもいいだろう。

a0011_000322.jpg「最近あまり眠れないのですが」
 月見 鏡は医務室の椅子に腰掛け、バネットと話をしていた。能力者といえども人間、悩みやストレスを抱える者も多い。ここでは怪我や病気の治療のほか、カウンセリングも行っている。
「何か悩んでいることがあるのかしら?」
 バネットは小首をかしげて鏡を見つめる。
「ええ……ここの環境はあまりいいとは言えませんし、毎日同じものばかり見ているとどうも気が沈んでしまって」
「そうね」
 鏡の作り話――完全に作り話というわけではないが――を聞きながら、バネットは彼に紅茶をすすめた。
 バネットは鏡の作戦にぴったりの人物に思えた。線の細い女性で、危険を侵さずにそれなりに入り込める場所も多そうだ。彼女の『分身』を作り、自分と意識を共有させて動かせれば……
「大胆な作戦ね、そのためにここにきたのかしら」
 バネットの声で鏡は我に返った。
 声に出していないはずの思考が、読み取られたのか? 彼女がそういう能力を持っている可能性は十分ある。しかしそれと分身が作れるかどうかは別の話。
「テストは始まったわ。私のコピーを作ってもいいわよ?」
「罠、ですか」
「テストよ」
 バネットは涼しく笑った。
第2回リアクションを書き終わった分から少しずつあげていっています。
第1回より長くなりそうな感じです。
GW中に書き終われば……と思っているのですが、ちょっと難しいかもしれません。
GW中のお暇なときに楽しんでいただければと思っています。

アクションのメールでメッセージを下さる方、ありがとうございます。
個々にお返事できなくてすみません。
暑くてだれ気味ですが、リアクションを書いているときはとても楽しいです。
突然夏がやってきてしまったようなお天気ですが、皆さんも体調に気をつけてくださいね!

※今回のリアクションでは、ただの脱出劇ではない臭いがもりもりしています!

 食堂から自室へ向かう途中、トランスポートは薄暗い化粧室を眺めていた。噂ではこのあたりのエアダクトからある程度セキュリティーに見つかることなく奥へ進めるらしい。しかし、それらしいものが堂々と見えるようにあるはずもない。
 不意に、天井の一部がボコンと外れて床に落ちた。
 トランスポートはその四角い板を持ち上げてみる。見上げると、エアダクトの一部が見えた。これは偶然か? いや、何かの罠かもしれない。しかし悩んでいる暇はない。周囲に誰もいないことを確認すると、トランスポートは左手から食堂の椅子を出した。ナイトメア『3rd hand』。多少の制限はあるが、右手で触れたものを左手へと移動することができる。椅子は先の停電による混乱に乗じて右手から持ち出したものだ。
 椅子を踏み台にすると、背の高い彼はひょいとエアダクトの中を見渡すことができた。狭いが、人一人は何とか通れるようだ。
 確認が終わると板をはめ込み、椅子を右手で触れてその場から消す。
 警報は鳴らないし、職員が来る様子もない。
 トランスポートは何事もなかったかのようにその場から立ち去った。
7_c0fc8f62fb_png.png

「ねぇ、いるのはわかってるのよ」
 ボブカットのブロンドが揺れる。バネットが薄暗い闇に向かって言葉を投げかけている。
「面白い能力ね。杏柚には荷が重いわ」
『……』
「あなたは自分の意思でここにきた。でもそれすら『箱』の想定内の出来事。テストは始まった。あなたは被験者たちの味方をするのね?」
 闇の答えを待たずにバネットは去った。無論、闇も答える気などなかったが。
 

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